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崖の上のポニョ 

宗介は家の庭を外れて、急な小道を降りていった。少し降りていくと穏やかに波を寄せる汀に出た。小石が波に洗われて丸い形をして転がり、藻の緑に包まれていた。
宗介は波間の漂流物の中に、小瓶に詰まった謎の生き物を拾う。
「金魚だ!」
いや、金魚ではないだろう。
ポニョは「魚の子」とされているが、どう頑張っても魚には見えないし、そもそも親は魚ではない(母親のグランマンマーレが実は巨大アンコウなんて話も……?)。
だが宗介はポニョを見て「金魚だ」と断定し、その後ポニョは金魚、あるいは魚の子であるという前提で進行していく。
老婆のトキは「人面魚だ」ともっとも妥当な指摘をして見せるが、この映画においては少数派だ。映画の初めで宗介が「金魚だ」と規定したから、ポニョはもう金魚なのだ。
『崖の上のポニョ』は子供の視点が貫かれている。世界はまだドロドロとした混沌で定まらず、不可解が現象に直面しても驚きは少なく、「そういうものだ」と簡単に受け入れてしまっている。
あらゆる原理が絶対のものとして膠着している大人の視点で見ると、『崖の上のポニョ』はあまりにも渾沌として不可解なもののように映る。物語構造は破綻しているようにすら見えてしまう。
『崖の上のポニョ』は、世界は絶対のものであるという限界を飛び越え、驚くべきビジョンを描いた作品である。
崖の上のポニョFC
「宗介に会いたい」
そう願ったポニョは人間に姿を変えて、大津波と共に地上に飛び出してくる。大津波は港街を飲み込み海底に沈めてしまうと、宗介の乗る車を猛然と追跡してくる。
あの驚くべき大津波と、驚嘆すべき猛烈なエネルギーはまさにディオニソス的である。ポニョが引き起こす津波に物語の脈絡など一切なく、単なる感情の昂りの1つとして描かれている。あまりにも無意味で、恐ろしいまでに気まぐれであり、それでいてあのエネルギーが街の光景だけでなく映画のすべてを転覆させてしまっている。
そうして街は水の底に沈んでしまうが、映画は一切悲劇的に描いていないし、通り過ぎる人々の顔にも不安や悲しみは一切見られない。むしろ洪水という自然災害を1つのイベントとして楽しんでいるように見えて、生き生きと輝いている。
おそらくは日本人的な自然への信頼感がそこにあるからだろう。日本人は自然の浄化能力を強く信じている。水没しても必ず再生するという安心があるのだ。あるいは、日本人が原型的に持っている粘り強さと打たれ強さが背景にあるのかもしれない。戦時中、空襲の後でも「清々した」と言い切って、何もかも消えてさっぱりした風景を前にしても、決して挫けずむしろ希望を抱く強さだ。
水没した街の風景も、渾沌とした破壊の印象はない。水中の色彩は瑞々しく輝き、水に沈む街は黄昏ではなく再生と浄化を連想させる。水没した街にはデボン紀の生物がレイヤリングされ、生命が新しい力を得た瞬間の活力をそこに描き出している。
崖の上のポニョFC (1)
『崖の上のポニョ』の物語は前後の連なりよりも情緒豊かなエモーションが優先され、映像も常識的な原理を積極的に無視している。
未確認の情報だが、宮崎駿は『崖の上のポニョ』製作中に、フライシャー兄弟の作品を繰り返し見ていたと伝えられる。
フライシャー兄弟とは、1920年から40年ごろまで、短編を中心に多くの作品を制作したアニメーション作家である。1920年はまだアニメーションの黎明期とも言える時代で、フライシャー兄弟は偉大なる先駆者の一人として挙げられる。当時はウォルト・ディズニーのライバルでもあった。『ポパイ』や『ベティ・ブープ』といった日本でもおなじみのアニメもフライシャー兄弟の作品である。
フライシャー兄弟の作品を見ると、まるで夢の世界に迷い込んだ心地になる。夢と言っても、「美しく幻想的な」という意味ではない。不可解で不安にさせるほうの夢だ。
フライシャー作品はキャラクターが不可解なメタモルフォーゼを繰り返し、物語は前後の連なりを無視して驚くべきシーンが次々と展開してくる。それでいて感情的な情緒は強く、喜びや悲しみといった感情が花火のように突発的に打ちあがり、何もかもを飲み込んでしまう。
宮崎駿が本当にフライシャー兄弟を参考にしたのかは不明だが、見比べてみると確かにフライシャー兄弟を思わせる場面が多く見られる。主人公のポニョからして謎の生物だし、魚と人間の中間にある第2形態はさらに不可解なものを強めている。目玉をつけた波が魚の形に変わったり、グランマンマーレは存在自体がアンビリーバボーだ。やはり感情的な動きが通俗的原理より優先して描かれ、ポニョの感情の動きに釣られて大津波が引き起こされてしまうし、その後の水没した街に対して誰も不思議を感じていない。
単にアニメーションそのものへの根源に回帰したとも言えるが、確かにフライシャー的な場面があちこちに見られるようである。
崖の上のポニョFC (2)
映画『崖の上のポニョ』の製作をする切っ掛けとして、鈴木敏夫プロデューサーが興味深い話しをしている。
発端は、元サイゾー記者をジブリに受け入れたことに始まっている。その記者は恋人に振られたショックで仕事を辞め、アメリカに放浪の旅に出ようと考えていた。
それを知らずに鈴木敏夫は「じゃあジブリに来たら?」とこの記者を誘った。
「ジブリに入れるんなら」とこの記者はアメリカ行きをキャンセルしてジブリに就職した。
ところがその後もこの記者は働いている気配を見せない。
「あいつどうしてるの?」
「さあ?」
なんて鈴木敏夫は自分の周囲とやり取りしていたのだが、3ヵ月後驚くべき事件が発覚した。この記者がジブリの女性社員を妊娠させたのだ。しかもこの女性社員は宮崎駿のお気に入りだった女性である(愛人ではない。念のため)
しかし宮崎駿はこの一件に怒るわけでもなく、むしろ面白がってその記者に話を聞きに言った。そうしているうちにジブリ内で結婚ブームと出産ブームが同時に起き(まあ女の子が多いのだが)、宮崎駿と記者の対話も初めは無意味な雑談だったが、次第に新しい映画の話しになり、そのうちにもポニョや宗介といったキャラクターが生まれたと言われている。
(資料:CUT2008年3月号)
崖の上のポニョFC (3)
押井守曰く、『崖の上のポニョ』は高畑勲の影響から完全に解放された映画である。
宮崎駿にとって、映画の文法とは高畑勲であった。宮崎駿は高畑勲に演出家としての指導を受け、その後もずっと影響を受け続けてきた。映画製作中においても、「パク(高畑勲のこと)さんはこう書かない」と高畑勲の視点を意識し続けてきた。
宮崎駿に変化が現れてきたのはおそらく『千と千尋の神隠し』であろう。続く『ハウルの動く城』でもそうだが、宮崎駿自身が持っているビジョンと、高畑から教え込まれた原理との間で激しい葛藤が見受けられた。
『崖の上のポニョ』において、ついに高畑勲の呪縛から解放されたようである。『崖の上のポニョ』は物語の文法からも映画の文法からも解放され、新しい生命を得たばかりのように瑞々しい感性に満ちている。『千と千尋の神隠し』と『ハウルの動く城』で見られたような生と死が混濁するイメージも『崖の上のポニョ』には見られなかった。
崖の上のポニョFC (4)
『崖の上のポニョ』は近代的な映画作りの技法も捨てている。いわゆる映画的な俯瞰やローアングル、クローズアップといったよくあるカメラワークだ。そうした手法を切り捨てて、常に正面から絵画の力だけで挑戦している。
『崖の上のポニョ』の映像は独特だ。ある一定以上に詳細な線を一切描いていない。日本のアニメーション特有のものと思われた細密な線画は『崖の上のポニョ』においてはざっくり切り捨てられ、必要最低限の主線だけで物の形を表現している。
一見ぶっきらぼうに放り出したように見える少ない線だが、驚くほどしっかりと形を捉え、質感を表現している。画面構成はシンプルで色彩も抑え気味、台詞は全体を通して少なく、音楽がサイレント映画のように張り付いてくる。
おそらく絵画の素人は「自分でも描けそう」なんて錯覚を抱くだろう。そう思わせてしまう懐の深さと、その一方で素人を全力で遠ざける絵画技術の行き着く先を見せ付けてくれる作品だ。まさに、アニメーターという名の画家が行き着いたある境地である。
崖の上のポニョFC (5)
宮崎駿は映画『崖の上のポニョ』において、それまで築き上げたすべてを切り捨てて製作した。映画はこうであるべき、という刷り込みも切り捨てたし、過去作品において築き上げたものも切り捨てた。
『崖の上のポニョ』は他のどの作品とも似ていない驚くべきオリジナル作品だ。宮崎駿は67歳という年齢で既視感のまったくないイメージを作り出し、新たな系譜を映画史に刻みつけた。
その原動力となったのは、それまでに築き上げた驚嘆すべき画歴である。それから人並みはずれた画才と頑固さ。ジブリというブランドが吸い上げる資金力についても忘れてはならない。それら全てが1つになったところに『崖の上のポニョ』という作品がある。
『崖の上のポニョ』はまるで生まれたばかりの子供のような作品だ。何もかもはじめて接する驚きに満たされている。
『千と千尋の神隠し』と『ハウルの動く城』に描かれた死のイメージの向うにあったのは、意外にも生命誕生のビジョンである。『崖の上のポニョ』は原始の時代のように、新しい生命の輝きに満たされている。

作品データ
監督・原作・絵コンテ:宮崎駿
作画監督:近藤勝也 作画監督補:高坂希太郎、賀川愛、稲村武志、山下明彦
美術監督:吉田昇 美術監督補:田中直哉、春日井直美、大森崇
色彩設計:保田道世 映像演出:奥井敦  編集:瀬山武司
音楽:久石譲 音響効果:笠松広司 整音:井上秀司
主題歌:
『海のおかあさん』
作詞:覚和歌子 宮崎駿(覚和歌子「さかな」より翻案) 作曲・編曲:久石譲 歌:林正子
『崖の上のポニョ』(ヤマハミュージックコミュニケーションズ)
作詞:近藤勝也 補作詞:宮崎駿 作曲・編曲:久石譲 歌:藤岡藤巻と大橋のぞみ
制作:星野康二 プロデューサー:鈴木敏夫
アニメーション制作:スタジオジブリ
出演:奈良柚莉愛 土井洋輝 山口智子 長嶋一茂
    所ジョージ 天海祐希 矢野顕子 吉行和子
    奈良岡朋子 左時枝 平岡映美 大橋のぞみ
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[ 2010/02/06 18:34 ] 映画評(アニメ) | TB(0) | CM(0)

ファイト・クラブ 

誰もが人に聞いた。
「タイラー・ダーデンを知っているか?」
ファイト・クラブFC
僕は半年間、不眠症に悩まされていた。眠れない日々が続くと現実の何もかもが曖昧になる。遠くにかすんで、コピーのコピーのコピーのように擦り切れてしまう。
ファイト・クラブFC (1)
「不眠症では死なないよ」
医者は突き放すように診断を下した。薬も出してくれない。頼むよ、苦しんだ。
「君が苦しい? 睾丸ガン患者のグループに出てみろよ。あれが本当の苦しみだ」
ファイト・クラブFC (2)
僕は睾丸がん患者のグループセラピーに参加した。そこで出会ったのがボブ。
ボブはボディビルの元チャンピオンだったが、筋肉増強剤の濫用でホルモンバランスが崩壊し、今や神の乳房を持つ大男になっていた。
見知らぬ他人の告白は僕の心を揺さぶった。自分でも思いがけず堰が崩れて、涙が出た。沈黙と忘却の暗黒に身を投じて、自由になる心地を見出した。
僕は眠れるようになった。
それが切っ掛けで、僕は毎日あらゆるグループセラピーに参加した。
アルコール依存症、過食症、脳神経症……。
僕はガンでもなければ死に掛けてもいなかった。この連中が取り囲む世界の、小さな中心だった。僕は毎晩彼らと一緒になって死を見つけ、その度に再生した。蝶が脱皮して背伸びをしている感じだ。マスターベーションより遥かに心地のいい解放感だった。
ファイト・クラブFC (3)
そんな夢心地をあの女がぶち壊しにした。
「ここ、睾丸ガン患者のグループでしょ?」
やってきたのはマーラ・シンガー。
女が睾丸ガン患者? とんだイカサマ女だ。どこも悪くなかった。
マーラは血液感染症の会にも顔を出していた。隔月の異常赤血球症患者の会にも。金曜の結核患者の会にも出席していた。
マーラ……観光気分の見物人。
「あなたも同じよ。インチキ」そう言われたような気がして、僕は泣けなくなり、再び不眠症になった。
ファイト・クラブFC (4)
飛行機では何もかも1回分だ。1回分のパックの旅。砂糖もミルクも1回分。バターも1回分。おままごとのような機内食。1回分のシャンプー液。
機内で隣り合わせる人は1回分の友達だ。タイラー・ダーデンはそんな1回分の友達の1人だった。
「知ってるか? ガソリンと冷凍オレンジジュースでナパーム弾が作れる。家庭にあるどんなものでも爆弾が作れる。本気だしゃあね」
タイラーは1回分の友達の中で最高の男だった。
ファイト・クラブFC (5)
タイラー・ダーデンとの出会いは僕を劇的に変えた。いや僕だけではなく、僕たち皆を変えた。タイラーは男達が喉元で引っ掛かっていたものを引っ張り出したんだ。
タイラーは男たちを集めて「ファイト・クラブ」を作った。それは僕から皆へのプレゼントだった。
「諸君。ファイト・クラブへようこそ。
ファイト・クラブルールその1。ファイト・クラブのことは口にするな。
ファイト・クラブルールその2。絶対にファイト・クラブのことは口にするな。
ファイト・クラブルールその3。降参を告げたり、大怪我や戦意喪失はそこでファイト終了。
ファイト・クラブルールその4。1対1で戦う。
ファイト・クラブルールその5。1組ずつやる。
ファイト・クラブルールその6。シャツと靴は脱げ。
ファイト・クラブルールその7。決着がつくまでファイトをやめることはできない。
ファイト・クラブルールその8。初めてこのクラブに来た者は必ず戦え」
ファイト・クラブFC (6)
現代は広告が人間を形成している。広告媒体であるメディアが人間を作り、その人間が社会を作る。現代におけるイデアの神はメディアである。
俺たちは何を考えるべきであるのか、ある対象に対してどう感じるべきなのか。好意を抱くべきか嫌悪をするべきなのか。その判断のすべてを、俺たちはメディアに委ねて、自身で思考する努力を怠っている。
俺たちは広告業界というお釈迦様の掌で踊らされいるだけの間抜けな猿だ。
それはお前自身の考えか?
お前自身の言葉はどこにある?
目を見開いてそこにある現実を見ろ。人間自身を見ろ。俺は俺だ! お前が見ているのは広告業界の作り出した幻影だ。
ファイト・クラブFC (7)
現代人は広告業界が分類したカテゴライズを受け入れてしまっている。現代人は人間を見て人間を見ていない。現代人が見ているのは“何系”と集約されたカテゴライズであって、人間自身ではない。
自分は“何系”の人間であるのか。自分がどの括りに属する人種なのか絶えず注意を払い、その属性が社会での自分の立場を決定してくれると信頼している。
現代人の実体は、中身のない抜け殻だ。それをごまかすように、広告会社が宣伝する装飾でアバター(仮人格)を飾り立てている。お前たちは広告会社の作り出したイミテーションであって、コピーを繰り返した象のぼやけた影に過ぎない。
現代人はヒューマニズムの力を失っている。個人としての力など誰も求めていない。ただ社会を機能させるための成員であることだけが求められ、その人間が誰であるかなど誰も求めていない。もっといえば、お前などいなくても社会は何の問題もなく機能するのだ。今や人間が社会を動かしているのではなく、社会が人間を奴隷にしているのだ。
ファイト・クラブFC (8)
現代人の孤独は社会が積極的に作り出したものだ。社会が集団を細かなカテゴライズで分断させ、その内部に格差と不和を作り出し、連帯の力を弱めた。広告会社が戯れに作った言葉を社会に浸透させ、自分たちの影響力を誇示するためだ。
結果として人間は人間ではなく、カテゴライズという一集団でその対象を見るようになった。同じ国籍の人間だが違う人種だ。それがいつの間にかセックスする相手もいない孤独を作り出した。
現代人は人間の社会の中で漂流する、宿命的な異民族である。しかもそこに、中心となる社会がない――いや、中心と思われていた社会はあったのだが、その地位を失いつつある。
『ファイト・クラブ』はそんな現代社会の閉塞感に対して強烈なルサンチマンを叩きつける。俺は俺だ。広告会社の作り出した格差ではなく、己の拳で己自身を叩きつける。会社では何の役に立たない“立場”である平社員が、ファイト・クラブでは上司を叩きのめしている。それがファイト・クラブの魅力だ。
ファイト・クラブFC (9)
タイラー・ダーデンは過剰に誇張された父性だ。過剰であるからこそ、タイラーはシンボリックな存在として、カリスマ的な崇拝すべき対象となった。
カリスマは人々に言葉を与え、扇動し、新たな社会を作り出す。それがいつの間にか支配と被支配という組織社会を作り出すようになる。
タイラー・ダーデンは男性性のシンボルとして男達から解放を与えた。その次の段階として破壊のシンボルへと移行した。より過剰な力で、社会を再創造しようと目論んだのだ。
父性は解放を促すイコンではなくなり、単に支配するだけの存在に変わる。
ファイト・クラブFC (10)
文化とは芸術が劣化し大衆化した姿だ。人間はその文化を模倣して、それを足がかりに生活し、行動規範を決めている。
『ファイト・クラブ』の公開後、多くの人が懸念したのは『ファイト・クラブ』そのものを模倣することだった。コロバイン高校銃撃事件の直後という時期もあり、人々は『ファイト・クラブ』を警戒した。
だが考えてみれば『ファイト・クラブ』はコインの裏と表のような存在だ。コインの表とは即ち広告会社が作り出したアジテーションだ。『ファイト・クラブ』が語ってみせたのは、もはや空気のようになって存在すら感じられず、しかし確実に我々の生活からモラル、美意識にまで影響を与え、操作している広告会社の存在についてだ。『ファイト・クラブ』は人間が擦り切れのコピーになっている現実を指弾し、ニーチェ的な力の回復を促している。
『ファイト・クラブ』は見る者の心理に語りかけ、行動を引き起こさせる強引な力がある。それが見る人によっては凄まじい嫌悪感を呼び起こすのだろう。称賛する人がいる一方、拒絶する人も多かった。
それこそ、その状況こそ『ファイト・クラブ』が目論んでいるテーマだ。
『ファイト・クラブ』は甘い揺り篭に守られている現代人を目覚めさせ、顔を掴んで無理やり振り向かせようとしている。そこに何が見えるのか? そこで見えたものがこの映画の答えだ。

作品データ
監督:デヴィッド・フィンチャー 原作:チャック・パラニューク
音楽:ザ・ダスト・ブラザーズ 脚本:ジム・ウールス
撮影監督:ジェフ・クローネンウェス 衣装:マイケル・カプラン
編集:ジェームズ・ヘイグッド 特殊メイク:ロブ・ボッティン
出演:エドワード・ノートン ブラッド・ピット
    ヘレナ・ボナム=カーター ミート・ローフ・アディ
    ジャレッド・レトー ザック・グルニエ
    ピーター・イアカンジェロ デヴィッド・アンドリュース
    リッチモンド・アークエット アイオン・ベイリー
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[ 2010/01/26 15:59 ] 映画評 | TB(0) | CM(1)

ロード・オブ・ザ・リング 第3章 

第3章 王の帰還
THE RETURN OF THE KING

指輪物語3FC
ゴラムは以前、スメアゴルと呼ばれるホビットであった。アンドゥインのほとりに住むホビット三支族の1つである、ストゥア族の生まれであった。
ゴラムに悲劇が訪れたのは不運によるものであった。
その日、スメアゴルは友人のデアゴルと釣りに出かけていた。小さな小舟に乗り、のどかに釣り糸を垂らしていた。間もなくデアゴルの釣り針に魚が食いついた。デアゴルは引き上げようとしたが魚は大きく、デアゴルを水中に引きこんでしまった。
間もなくデアゴルは岸に這い上がるが、その頭に水草を絡め、手には一掴みの泥が握られていた。その泥に、金色に輝く指輪が混じっていた。
「デアゴル。それを俺にくれないか? 俺の誕生日だろう?」
デアゴルは拒否した。奪い合いになった。スメアゴルはデアゴルを押し倒し、首を掴み締め上げた。間もなくデアゴルは体をひくひくとさせて動かなくなってしまった。
こうしてスメアゴルは金の指輪を手に入れた。
ストゥア族の者たちはスメアゴルを「人殺し」罵り、石を投げて里から追放した。スメアゴルは古里を遠く離れ、霜降り山脈を住処にした。
もはやスメアゴルの名を呼ぶ者はいない。スメアゴルの体は衰弱し、髪は抜け落ち服もボロボロになって、ホビットらしい陽気さと理性を失ってしまった。金の指輪はスメアゴルの精神を蝕み、その寿命を長く引き伸ばした。
いつしかスメアゴルは、自身の名前も忘れ、ただただ指輪に取り憑かれるだけのおぞましい生き物になってしまった。

角笛城での戦いに勝利したガンダルフとアラゴルンは、セオデン王と少ない従者を連れてファンゴルンの森の中へと入っていった。深い森を抜けアイゼンガルドに出ると、そこは戦の後のように崩壊し、濁った水で浸されていた。その入口で待っていたのは暢気にタバコをふかしているメリーとピピンだった。
「何て奴らだ! あちこち探してみたのに、見つけてみりゃ腹いっぱい食い、パイプ草!」
アイゼンガルドの戦いもちょうど終ったところだった。エントたちの怒りの襲撃によってアイゼンガルドの施設は崩壊し、忌まわしき地下の溶鉱炉もダム決壊の濁流によって洗い流された後であった。ウルク=ハイの軍団ももはや1人も残っていなかった。アイゼンガルドに残されていたのはオルサンクに篭城するサルマンただ1人だけだった。
ガンダルフはオルサンクの前に進み、サルマンと話し合いを始めた。サルマンは哀れな老人の振りをしてセオデンを誘いかけるが、セオデンはサルマンの魔術を察して断固拒否。
逆上したサルマンはパランティアの石を持ち出し、ガンダルフを挑発した。対するガンダルフはサルマンの杖を破壊し、魔法使いの力を取り去った。
怒りの収まらないサルマンはオルサンクの屋根の上で喚き散らし、従者であるグリマを「野良犬!」と侮辱して殴りつける。
グリマに反抗心が浮かび、サルマンに飛び掛って背中からナイフを突き立てた。そのグリマをレゴラスが矢で射抜く。絶命したサルマンはオルサンクの塔から落ちて絶命した。
指輪物語3FC (1)
ガンダルフはパランティアの石を手にし、仲間たちとともにエドラスの黄金館に戻った。
ローハンの男達は戦いを終えて祝杯を上げていた。だがサウロンとの戦いはまだ終わってないし、次にどんな手を討ってくるのか想像もできない。それにフロドの生死も不明だった。無事にモルドールに向っているのか、手掛かりは何もなかった。
そんなある夜、ピピンは眠っているガンダルフからパランティアを奪い取り、その中を覗きこんでみた。するとパランティアは、魔法の力を宿してピピンに取り憑いた。
アラゴルンとガンダルフが助けに入ってピピンからパランティアを引き離した。ピピンは悪しき魔力に消耗していたが、パランティアから白い木のイメージを読み取っていた。
白い木――それはミナス・ティリスに置かれているイシリアンの木だ。ゴンドールに再び王が戻るその時、花を咲かせると呼ばれる木だ。
サウロンの次なる手が判明した。サウロンはゴンドールの首都ミナス・ティリスを襲うつもりだ。ゴンドール王が帰還する前にその玉座を破壊する計画だ。
ガンダルフはピピンを連れて飛蔭に跨った。サウロンはピピンが指輪を持っていると思っている。だからあえてピピンを連れてゴンドールへ向うのだ。
3日後、ガンダルフはミナス・ティリスに到着した。デネソールに面会を求めるが、デネソールはボロミアの死を知り、深く嘆いていた。ガンダルフは狼煙を上げてローハンに救援を求めよ、と忠言するがデネソールは受け付けなかった。そんなデネソールの哀れな様にピピンは責任を感じ、奉公すると申し出る。
ペレンノール野に暗雲が覆いつつあった。あれは自然の風が送り込んでくる雲ではない。陽の光を嫌うオークの軍団を送り込むために、サウロンが作り出した雲だ。
間もなくオスギリアスを守備していたファラミアが、襲撃を受けてミナス・ティリスに遁走してきた。サウロンの闇の軍勢はオスギリアスの防衛線を乗り越えて次々と押し寄せようとしている。戦いの時が今まさに訪れようとしていた。
指輪物語3FC (2)
フロドとサムはゴラムを案内人に旅を続けていた。いよいよキリス・ウンゴルの暗い山脈を前にしようとしていた。その手前にミナス・モルグルと呼ばれる城があった。フロドたちが通り抜けようとするとミナス・モルグルは不気味な光を空へ吹き上げた。それに呼応するようにおぞましい獣に乗ったアングマールの魔王が姿を現し、続くようにオークの軍隊が隊列を作って出てきた。
フロドたちはオークの軍団に見つからないように身を潜め、ゴラムの案内で崖に刻まれた長い階段を登って行く。
その途上で、ゴラムは唯一の食糧であるレンバスを投げ捨てて、「サムが全部食べてしまった」とフロドに吹き込む。ゴラムを信じたフロドは、サムに「お前はもういい。家に帰れ」と切り捨てる。
フロドはゴラムとともに階段を登りきり、その先のトンネルに入り込む。そこは大蜘蛛シェロブが巣を作る危険な場所だった。フロドはシェロブの存在を知らず不用意にトンネルの中に入っていき、その毒針に胸を刺されて倒れる。
ようやく駆けつけたサムがシェロブを撃退するが、すでにフロドは息をしていなかった。しかもそこにオークたちがやって来る。サムはとっさの判断でフロドから指輪を抜き取り岩陰に身を潜める。
とそこで、サムはオークたちの会話で、フロドは仮死状態になっただけで死んでいないと知る。しかしフロドはオークたちが根城にする塔に従れさらわれてしまった。

映画史上最大級の叙事詩もいよいよ終わりの時を迎えた。第3部においてすべての戦いに決着がつき、物語が収束していく。これまでの伏線がより大きなドラマへと発展していき、より暗く過酷な運命の時を迎える。
最終章だが物語が小さくつづまっていく感じはない。これまで以上に複雑で雄大かつ壮絶な戦いの物語が繰り広げられ、英雄達のドラマはより力強い生命力を持って語られていく。
映画の背景においてもはや解説の必要がなく、ドラマを語るべき段階に入ったからだ。だからこそ第3部は、シリーズにおいて最も感動的な情緒に溢れている。
第3部に入って、登場人物たちはそれぞれに試練が与えられる。狂気に捉われたデネソールから父としての愛を得ようとするファラミア。同じくデネソールに奉公することになったピピン。戦いを前に葛藤するローハンのセオデン王や、その後を追って戦いに参加するエオウィンとメリーの存在も忘れてはならない。ゴンドールの魔の気配に冒され、衰弱していくアルウィンもいる。
その中でもとりわけ存在感を放つのがさすらいのレンジャー・アラゴルンだろう。アラゴルンは指輪に捉われて殺されたイシルドゥアの子孫にして正当なる後継者である。だがそれだけに、自身の弱さを恐れている。かつてイシルドゥアが犯した過ちを自分も犯すのではないか――その血を引いている限り、指輪に捉われた王という宿命から逃れられないのではないか。
だからアラゴルンは身分を隠し、野伏として生きてきた。それはサウロンたちの勢力から身を隠すためでもある。
だが第3部において、ついにアラゴルンは自らの宿命を受け入れて戦いの覚悟を決める。王の剣であるナルシルが鍛えなおされ、アンドゥリルの剣として復活した。アラゴルンはイシルドゥアの後継者として王の剣を持ち、かつて王に忠誠を誓った軍団を束ねていく。
それからのアラゴルンの活躍、勇猛さは映画をご覧のとおりだ。アラゴルンを演じたヴィゴ・モーテンセンは王の風格と聡明さを見事に体現している。ヴィゴ・モーテンセンなら王として君臨しても相応しいという気にさせてくれる。
指輪物語3FC (3)
第3部においてもっと感動的なドラマを演じてみせたのは、間違いなくフロドたちであろう。指輪の魔力で衰弱し、それでも諦めず滅びの山を目指していく。ゴラムに騙され仲間に疑いを抱き、その身がボロボロになって崩れそうになっても、なおもがくように目的地を目指して進んでいく。
フロドは容赦なく痛めつけられ、傷付けられ、死の淵のぎりぎりのところまで追い込まれていく。次第に衰弱し、体は痣だらけになっていく。そんな様に我々の心は鷲掴みにされ、その過酷な試練に挑戦していく姿に一時も目を離せなくなる。
第3部はどこまでも厳しくつらい試練の場面である。誰もがぎりぎりの戦いに挑戦し、その苦しみに対し、恐れは抱くものの決して避けようとしない。なぜなら彼らは、避ける時ではないと知っているからだ。今こそ受け入れるときだと。試練を受け入れ乗り越えないと、その先にもう明日はないと察しているからだ。だから彼らは、躊躇いを捨てて試練に挑戦していく。
指輪物語3FC (4)
映画『ロード・オブ・ザ・リング』において素晴らしい成長を遂げたのは映画内におけるキャラクター達だけではない。映画製作会社WETAは今や映画産業においてなくてはならない制作会社になった。
もともとは『ロード・オブ・ザ・リング』の制作のためだけに作られた制作スタジオだったが、今やその枠をとっくに超えてしまっている。当初は専門学校をちょっと出たばかりの学生ばかりが集る頼りなげな制作会社だったが、映画が終わる頃には世界中が認める一流企業になった。
最近制作された規模の大きな映画はほぼすべてWETAが関わっているといっていいくらいだ。WETAの個性はデジタル技術だけではなく(デジタルばかり注目されるが)、あらゆる物もなければ作ってしまえ、という心構えにある。衣装やプロップといったものを、紛い物ではなく本物を作ってしまう技術と職人を抱えているのだ。緻密に作られた装飾品や、鍛冶職人が鍛え上げた本物のようではなく、紛れもなく本物の鎧や剣。そうした本物を作れる職人がいるのもWETAの魅力でもある。
指輪物語3FC (5)
総制作費340億円という大きな予算も第1作目で全て回収し、第2部はそれ以上の利益を上げてしまった『ロード・オブ・ザ・リング』である。もはや世界中の誰もが待ち望む作品の1つであった。それだけに、待ちに待った第3部の熱狂はすさまじいものであった。
日本におけるワールド・プレミアは増上寺で開催された。東京タワーをバラド=ドゥアに見立てて、魔法の指輪を本殿に奉納するという式典であった。
日本のワールド・プレミアも相当金のかけた大掛かりなものであったが、本国ニュージーランドはもっと際立っていた。
ウェリントンの国会議事堂をスタート地点としておよそ3キロに及ぶレッドカーペットが敷かれ、出演者達がオープンカーに乗ってパレードをするのである。レッドカーペットの周囲にはニュージーランド中から人々が押し寄せて、大興奮で出演者達を迎え入れた。そんなパレードが始まると、空中をフロドたちの写真をプリントされた旅客機が旋回するのである。
まさに偉大なる戦いを勝利した英雄を歓迎する行進であった。
指輪物語3FC (6)
ところでエンディング曲であるアニー・レノックスが歌う《イントゥ・ザ・ウエスト》には1つの物語が隠されている。
《イントゥ・ザ・ウエスト》は過酷な旅に疲れた者の心を癒し、安らぎを与える歌である。まさに映画『ロード・オブ・ザ・リング』のラストを飾る歌として、英雄達に相応しい曲である。
だがこの歌の中心人物はフロドやアラゴルンとは別にもう1人いる。わずか16歳でこの世を去った若き映画監督キャメロン・ダンカンである。
ピーター・ジャクソンは妻のフラン・ウォルシュとともに臓器提供の促進運動を支援していた。CM製作などをしていたのだが、その時に出会ったのがキャメロン・ダンカンであった。ピーター・ジャクソンがキャメロン・ダンカンと出会った頃はまだ12歳の少年であったが、素晴らしい感性と洞察力に満ちた映画を作り上げていた。
だがコンタクトを取ってみるとキャメロン・ダンカンはすでにガンに侵されていた。骨肉腫であった。余命は短く、キャメロン・ダンカン自身もすでに自分の寿命が終わるのを察していた。
それでもキャメロン・ダンカンは死に怯えず映画製作に打ち込んだ。自身を主役に据えて、自身の痕跡を残すために映画を作り、短編映画『ストライク・ゾーン』を完成させたと同時に死亡した。
同じ頃、フラン・ウォルシュは《イントゥ・ザ・ウエスト》の作詞の最中であったが、この事件が作詞に大きな影響を与えた。《イントゥ・ザ・ウエスト》の歌詞が示している安らぎと祝福の対象はもちろんフロドたちであるが、もう1人キャメロン・ダンカンに向けられているのだ。
指輪物語3FC (7)
映画『ロード・オブ・ザ・リング』は興行的な利益をもたらしただけでなく、多くの栄誉が与えられた映画でもあった。
アカデミー賞11部門ノミネート、その全てにおいて受賞。これはアカデミー賞始まって以来の快挙だったそうだ。しかも『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズトータルで17本のアカデミー賞を獲得している。それ以外の映画賞を加えるとどれだけのトロフィーを手にしたのかもはやわからない。『ロード・オブ・ザ・リング』は実に3年もの間、人々の関心と注目をさらい続けた映画であった。
だがそんな映画にもお別れのときがやって来た。その最後は最も激しく、最も過酷な渾沌を前にして燃え上がり、主人公は恐るべき艱難に立ち向かっていく。
闇の世界から放たれた大波は、緑の野と山々を飲み込み、何もかもを暗く覆い尽くしていく。そして私は、真っ暗な水の底を孤独になって見詰めている。何もできず、無力感に絶望しながら。背中に光を感じていたけど私は振り向けず、ただ立ち尽くしていた。
希望がどこにも見えない物語。しかしそれでも私たちの心を離さず、強く捕らえて進んでいく。
そんな物語の最後には英雄が平和を獲得する。古里に帰っていくと、古い友人たちが旅立った者を受け入れ、途切れていた時間などなかったかのように日常が回りだす。
緑竜館へ行くと、皆はいつもと変わらない様子で大騒ぎしていた。彼らは何も知らない。彼らがどんな世界を旅して戦ってきたか。彼らは何も知らない。平和の尊さを。それから深い傷を負った英雄たちの心中を。
戦いの思い出と傷は共に旅した仲間の胸にひっそりとしまい、今は平和の暖かさを深く噛み締めながら乾杯をしたい。
だが一度平和の里を出てしまった者にとって、途切れてしまった日常は元に戻せない。時が元に戻せないように、一度知ったものを戻すわけにはいかない。恐ろしい恐れと不安はその後も胸を取り憑いている。英雄には安らぎが必要だ。それも静かで、永遠に続く安らぎだ。
彼は海の向うへと旅立ってしまった。さあ、長い長い物語ももうおしまいだ。そんな言葉を我々に戻して。
こうして物語は閉じていく。創作の世界が我々の前に扉を開けるのはほんの僅かな時でしかない。夢の世界の住人と共にできるのは束の間でしかない。あのどこまでも広がる野も、白く輝く浜も、静かな空を舞う鳥たちも、潤いの雨を降らす雲も、物語の終わりと同時に我々の前から去っていく。
さあおしまいだ。
あそこは今や失われてしまった場所だ。別れを惜しんでも構わない。涙の全てが悪しきものではない。
だが誰にとっても『ロード・オブ・ザ・リング』の物語は離れがたいものであった。読者の全てが通過したように、出演者や製作スタッフたちも別れを惜しんだ。出演者や製作スタッフにとって、単純な別れではなかった。もはや人生の一部になりかけていた創作物である。
もっと掘り下げる余地があるかもしれない。もっと精度を上げられるかもしれない。何よりも離れがたい。
だが別れの時はやってきた。映画の完成と共に、人々は永遠の友情と愛を誓い合い――解散した。

作品データ
監督:ピーター・ジャクソン 原作:J・R・R・トールキン
脚本:フラン・ウォルシュ フィリパ・ボウエン
コンセプチュアルデザイナー:アラン・リー ジョン・ハウ
音楽:ハワード・ショア 主題歌:アニー・レノックス
撮影:アンドリュー・レスニー 編集:ジョン・ギリバート
衣裳:ナイラ・ディクソン リチャード・テイラー
出演:イライジャ・ウッド イアン・マッケラン
    ヴィゴ・モーテンセン ショーン・アスティン
    ビリー・ボイド ドミニク・モナハン
    オーランド・ブルーム ジョン・リス=デイヴィス
    ショーン・ビーン アンディ・サーキス
    ケイト・ブランシェット リヴ・タイラー
    マートン・ソーカス イアン・ホルム
    バーナード・ヒル ミランダ・オットー
    カール・アーバン デヴィッド・ウェンハム
    ブラッド・ドゥーリフ クリストファー・リー
    ジョン・ノーブル
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[ 2010/01/24 13:54 ] 映画評 | TB(0) | CM(0)

ロード・オブ・ザ・リング 第2章 

第2章 2つの塔
THE TWO TOWERS

指輪物語2FC
ボロミアの裏切りと死、ウルク=ハイたちの奇襲によって旅の仲間は離散した。フロドはサムだけを連れて使命を果たすために行ってしまった。
メリーとピピンの2人がフロドと間違えられてウルク=ハイたちに誘拐されてしまった。裂け谷で誓い合った使命は無駄だったのだろうか。いや、まだ使命は終わっていない。ウルク=ハイたちに誘拐されたメリーとピピンの2人を救い出すのだ。旅の仲間の解散はそれからでも遅くはない。
アラゴルンを筆頭にレゴラス、ギムリの3人が徒党を組んでラウロスの滝を去ったウルク=ハイ追跡を始めた。だが相手は疲れ知らずのウルク=ハイたちだ。追跡は休憩も食事もなしで幾日も続いた。
その途上でアラゴルンはウルク=ハイたちが踏み散らかした足跡に紛れるようにロリアンのブローチが落ちているのに気付く。メリーかピピンか、自分たちが追跡しているのを察して目印を残したのだ。
ウルク=ハイたちはローハン草原を横切って西へ、サルマンの待つアイゼンガルドに向うつもりだ。アラゴルンたちは休みなしの決死の強行軍を続けた。
だがその途上でアラゴルンは、ローハンの騎馬団が行く手から向かってくるのを目撃する。
「ローハンの騎士たちよ、何があった!」
呼びかけるとローハンの騎士たちはアラゴルンたちを取り囲み槍を突きつけた。アラゴルンは自分たちはサルマンのスパイではないと誤解を解き、誘拐された仲間を救い出すためにウルク=ハイの軍勢を追っていたと説明する。だがローハンの騎士の筆頭であるエオメルは昨晩その軍勢を襲い、一人残らず虐殺した末に、ローハンの習慣に乗っ取って積み上げて焼いたと答えた。
メリーとピピンは彼らの殺されたのか。アラゴルンたちは愕然と、行く手に吹き上がる黒い煙に目を向けた。
ローハンにも混乱が忍び寄っている。サルマンのスパイが方々を荒らし、実はエオメルもエドラスを追放されたばかりだった。蛇の舌グリマがセオデン王に取り入り、嘘を吹き込んで王を腑抜けにしてしまったのだ。
だがエオメルは単独で自分の部下達を引き連れ、ローハンを蹂躙する魔の軍勢を討伐する旅を続けていた。
アラゴルンたちはエオメルと分れてウルク=ハイの死体が積みあがる場所へ向った。確かにそこにメリーピピンの姿はなかった。
だがアラゴルンは争いの痕跡の中に小さな足跡を見つける。ここを這ったんだ。ここでロープを千切って立ち上がった。足跡はさらに続き、その向うのファンゴルンの鬱蒼とした森の中へと続いていた。
メリーとピピンは生きている。アラゴルンは森の中へ入っていき、その行方を探した。
その先で待ち構えていたのは意外にもモリアの坑道でバルログと谷底に落ちたはずのガンダルフだった。
ガンダルフの戦いは谷底への落下中から始まっていた。剣を手に取り、もがくバルログに取り付き、その刃を振り落とした。間もなく最下層に沈む池に落ちた。バルログを包む炎は消えてスライム・バルログに変わった。
戦いの舞台は無限階段へと場所を移しどこまでも続いた。バルログもその戦いの最中に力を取り戻し、体から火を噴出させた。無限階段は雪山の先端で終わっていた。そこが戦いの最後の舞台だった。ガンダルフは激闘の末にバルログを打ち倒し、山腹へと叩き落した。
同時にガンダルフも力尽きて倒れた。ガンダルフを光が包む。死の世界がガンダルフの眼前に広がっていた。だがガンダルフは送り返された。務めはまだ終っていない。ガンダルフは白のガンダルフとして新しい力を与えられ、中つ国へと戻ってきた。
メリーとピピンの2人は森の住人エントの保護下に入り、中つ国でもっとも安全な場所で守られている。ガンダルフはアラゴルンたちを連れてエドラスへ行きを提案した。
サルマンが結成した魔の軍勢は手始めとしてローハンの制圧を目論んでいる。ローハンが落とされると人間の勢力は衰退著しいゴンドールを残すだけになってしまう。それを阻止するためにローハンを死守する必要があった。
指輪物語2FC (1)
一方フロドとサムは、エミン・ムイルの険しい地形を前に立ち往生していた。何日も彷徨っているが方角が定められず、同じ場所を堂々巡りして出口が見付からなかった。それに追跡している不穏な影があった。
ある晩、フロドとサムは眠った振りをして自分たちを追跡する何者かを待ち伏せた。現れたのは指輪に取り憑かれし者ゴラムだった。ゴラムを捕えたフロドとサムは、エルフのロープで縛り上げ道案内をさせる。
その途上で、ゴラムはフロドを旦那として「いとしいしと」に懸けて従うと誓った。これを信用したフロドはゴラムをロープから解放し、道案内をさせた。
やがてエミン・ムイルを脱出し死者の沼地に達した。そこは人間とエルフの連合軍がサウロンの軍勢と戦った神話の舞台だった。あれから数千年の歳月が流れているものの、いまだにその周辺の沼地は浄化されず、怨霊たちが犇く呪われた大地になっていた。
そんな場所を抜けてようやく黒門の前へと到着する。だが黒門はオークたちの厳重な見張りで一分の隙もなかった。黒門が通行不能とわかると、ゴラムは実は秘密の道があると告げる。
サムは反対したがフロドはゴラムを信用して南へと進路を改める。
その途上で、オリファントを連れた南方人の軍団を目撃する。しばらく見ていたフロドたちだったが、突然何者かが南方人たちを襲った。ファラミアを中心とする要撃隊だった。
フロドとサムは戦闘の中心から逃れようとしたが、ファラミアにスパイと疑われ、捕まってしまう。ファラミアはボロミアの兄で、オスギリアスを守る戦士であった。ファラミアはフロドが力の指輪を持っていると知ると、その身柄を拘束しゴンドールへと連れて帰ろうとした。
指輪物語2FC (2)
第1部の緩慢さはどこへやら第2部『2つの塔』は激流の勢いで物語が滑走していく。壮大に思えた第1部は単にプロローグに過ぎず、もっと大きなドラマを描くための準備期間に過ぎなかったのだ。
物語の舞台はラウロスの大瀑布を抜けてローハン草原へと入っていく。そこから先は人間達の住処である。第1部におけるような妖精や小人たちの住まいではない。しかもそこはすでに戦いの気配が迫り、渾沌とした危険がまとわりついていた。
もはや小人が楽しい冒険を歌にして歌ったり、魔法のアイテムが絶体絶命の危機を救ってくれたりもしない。そこは「望みを失った」土地であるのだ。
指輪物語2FC (3)
第1部が冒険物語だったのに対して第2部は戦いの物語である。主人公達には次々と容赦のない試練が突きつけられる。ワーグの斥候に空中はワイバーンが飛翔し、ウルク=ハイの大軍勢が結成されようとしている。
剣を振り回しての戦いばかりではない。エドラスの黄金館へ行くとサルマンの放ったスパイがセオデン王を悪の道へと唆そうとしている。旅の仲間たちは力だけでなく智恵も勇気も、その資質を極限まで試されようとしているのだ。
指輪物語2FC (4)
第2部において特筆すべきは飛躍的に進歩したデジタル技術である。その驚嘆すべき成果として登場したのがかのゴラムだ。まさにデジタル技術が生んだ子供、人間とテクノロジーの結婚が生んだ子供だ。
ゴラムはそれ以前にありがちな主人公達を襲ってくる怪物CGとあらゆる点で違う。ゴラムは人間と同じように言葉を話し、俳優と共演し、物語の語り部となるべき存在なのだ。
指輪物語2FC (7)
その驚くべき存在感はあまりにも生々しく、我々はゴラムと接すると共感と嫌悪を同時に抱く。あのゴラムを見ると、生命を持った生き物であると疑いなく信じさせるものがある。
我々はすでにゴラムを単にデジタルキャラクターとしてではなく、生身の人間と認識している。CGはもはや映画を彩る装飾品ではなく、俳優の1人として考えるべき時がやってきたのだ。
ゴラムの技術は文句なしの喝采を浴びてその年のアカデミー賞をもたらし、技術的問題を理由に凍結していた多くの映画の企画を再スタートさせた。ゴラムの影響は想像以上に大きく、映画の歴史を一歩前進させたのだ。
指輪物語2FC (5)
また忘れてはならないのは群集を統括する『マッシヴ』と呼ばれるシステムである。『マッシヴ』は集団をシュミレーションし、これまで多くのエキストラと手間、それから予算を必要としていた群集シーンをデジタル上で完璧に描いてみせるソフトだ。
これが活用されたのはウルク=ハイの軍勢だ。ウルク=ハイは訓練されたスタントに数時間かかるメイキャップを施し、鍛冶職人が鍛えた本物の甲冑を身に着けなければならない。
そうするとどう考えても人数的限界に直面する。メイキャップアーティストだけでも数百人が映画制作に参加していたが、それでもどう考えても数万人のウルク=ハイを描くには足りない。そんなときに活用されるのがマッシヴだ。
マッシヴの効果は絶大なものだった。角笛城での激しい戦いはほとんどマッシヴで描かれたものである。見分け方はクローズアップされた質感まではっきり見える映像が実写で、ロングサイズで群集を見せる構図がビガチュア+マッシヴだ。だがそんな見分けを考えさせないほどマッシヴで作られた映像は精巧で、戦闘の激しさは凄まじい力があった。
指輪物語2FC (6)
第2部は妖精世界の物語から人間世界への物語へと移行する。つまり我々の文化に近いところにやってくるのである。中心舞台となるローハンの自然は美しいがどこまでも過酷な厳しさを感じさせてくれる。エドラスの風景は歴史を感じさせる古さがあり、衣装も調度品も文化の高さを感じさせると同時にそれがまとっている匂いを感じさせる質感も持っている。
そこは人間の世界なのであり、すでに妖精世界ではないのだと思い知らされる。そんな世界を背景に、人間は髪をぼさぼさ服はぼろぼろ肌は泥だらけになって旅を続け、戦いの血生臭さを容赦なく描いている。背景となる文化が徹底して描かれ、戦いの描写は圧倒的な力強さを持ち、ふとするとファンタジー映画であると忘れて歴史映画に接しているような気分にさせる。
指輪物語2FC (8)
第1部がファンタジーの世界観を魅せる作品であるのに対して、第2部は人間を描いた作品である。だから登場人物のクローズアップがより魅力的に生き生きと感じられる。物語にはご都合主義の権化である魔法の力に制限がかけられ、人間が決死の覚悟でぶつかり合い、ドラマを紡ぎ上げている。また自然の風景が中心となり、原作で記述されたどおりの平原や岩場、ファンゴルンの森といった舞台が次々に登場する。その風景の美しさに圧倒されると同時に、もはや『指輪物語』が空想物語であるとは思えなくなってしまう。
ローハンを舞台にした戦いの1つ1つは容赦のない迫力だ。甲冑を泥だらけにして血にまみれ、犠牲者を出しながらなおも戦い続ける。我々が目撃しているのはまさに歴史上の英傑たちの戦いなのだと思わせられる。
指輪物語2FC (9)
さらなる勢いを付けて滑走する『ロード・オブ・ザ・リング』の物語だがまだ全体の3分の2だ。本当のクライマックスへ向けて、ドラマはさらに過酷な局面へと入っていく。
戦士達はどこまでも深い渾沌の中へと躊躇いもなく飛び込んでいく。そこにあるのは戦いと死の無限の連鎖だ。自身も一瞬の隙で、あるいは躊躇いで、あるいは不運のために死んでしまうかもしれない。戦士達はいつでも恐ろしい障壁を前にして引き返す機会がある。
だが誰一人として引き返そうとしなかった。彼らは暗黒の狂気に捉われ、破壊と殺戮を望んでいたのか。それとも自らの死を希望していたのか。
いや違う。彼らは信じていた。この深い闇を抜けると新しい光が輝く瞬間があると。それは古里のためであり、そこで待つ子供たちのためであり、その背に背負っている全ての世界のためだ。
だから戦士達はどんなに傷つこうとも、側で仲間たちが倒れようとも、前に進むのを止めようとしない。自らの使命を知っているから。
目指す場所はこの世で最も暗く、醜い魔物が巣をつくり、冥界が口を開いて待っている場所だ。冥王のいるそこは地獄へと繋がっている。そんな恐怖を知りつつも、戦士達は決して引き返そうとしない。
――何を信じればいい?
望みを失ったこの世に、望みが失われた瞬間に。できるのはただ一つ、信じるだけ。希望を失わず耐えるだけ。命を懸けて戦うに足りる、尊い世界のために。
小さな望みはもっとも小さな者たちに託されて、使命は必ず果たされると信じ、戦士たちの旅はまだ続く。

作品データ
監督:ピーター・ジャクソン 原作:J・R・R・トールキン
脚本:フラン・ウォルシュ フィリパ・ボウエン
コンセプチュアルデザイナー:アラン・リー ジョン・ハウ
音楽:ハワード・ショア 主題歌:エミリアナ・トリーニ
撮影:アンドリュー・レスニー 編集:ジョン・ギリバート
衣裳:ナイラ・ディクソン リチャード・テイラー
出演:イライジャ・ウッド イアン・マッケラン
    ヴィゴ・モーテンセン ショーン・アスティン
    ビリー・ボイド ドミニク・モナハン
    オーランド・ブルーム ジョン・リス=デイヴィス
    ショーン・ビーン アンディ・サーキス
    ケイト・ブランシェット リヴ・タイラー
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[ 2010/01/22 15:57 ] 映画評 | TB(0) | CM(0)

ロード・オブ・ザ・リング 第1章 

第1章 旅の仲間
THE FELLOWSHIP OF THE RING


言葉は神話に思いを馳せるように、渾沌の闇から聞こえてきた。
太陽は今のようにぬくもりはなく、石は今のように固くなかった。人は巨人と暮らし、神々の祝福がすべてを覆っていた。
だがかの時代の言葉はもう我々は知らない。その断片を耳にするばかりだが、そこにどんな精神が込められていたのか――かつてを訊ねて歩こうとする者もいなくなった。
歴史が本にまとめられ忘却される以前、人々は本当の英雄物語を歌にして語っていた。人間はもっと大きく、偉大で強かった。精神は気高く純潔で、一方でどこまでも邪だった。
そんな時代には古里と呼ぶべき場所があった。誰もが懐かしく心に思い描き、2度と戻っていけない場所。私たちは風景の中にその断片を見つけては心を痛め、涙を浮かべている。知らないのに、誰もがその場所を求めている。
人間は何もかも忘れてしまった。妖精たちと戯れた幸福なひとときを。古里の憩いを。邪悪な魔物と戦った英傑たちの勇気を。
人々は失われた扉を求めて、彷徨い続けている。
指輪物語1FC
それは神話に語れた時代――。
全ては指輪の誕生から始まった。
3つの指輪が不死の命を持つ美しい種族、エルフに託された。
7つの指輪が鉱石採掘と細工物に優れた種族、ドワーフに託された。
9つの指輪は欲望と権力にまみれた人間達に託された。
それぞれの族長たちは指輪の力で、それぞれの土地を治めるはずだった。
だが指輪はもう1つあった。
モルドール国の火を吹く《滅びの山》に住まう冥王サウロンが密かに1つの指輪を作っていた。それは他のどの指輪よりも力を持っていた。サウロンはその指輪の力で、中つ国(ミドルアース)のすべてを支配しようとした。
人間とエルフは協力して連合軍を作り、サウロンの魔の軍団と戦った。その最後は人間の英雄イシルドゥアの剣によってサウロンは討ち滅ぼされた。

歴史は伝説となり、伝説は神話へ――。
かの戦いから2500年の歳月が流れていった。指輪を知る者はなく、戦いは歴史の一幕として忘却し、指輪の存在も同時に忘れられた。
しかしふとした切っ掛けで指輪は新しい持ち主を捕えた。
どの歴史にも掲載されない、特別な力も優れた知識も持たない小さな人たち――ホビット族であった。

時代は中つ国の第3紀。ホビット庄歴に置き換えると1400年9月22日。そこはホビット村の小山の下の袋小路屋敷だ。
ホビットたちは住処を4つの区域に分けて長年暮らしていた。その他の種族はホビットに無関心か、あるいは御伽噺の存在として切り捨てていたし、ホビットたちも外の人たちの政治や文化には無関心だった。
ホビットたちが情熱を傾けるのは食べることだけと言われているが、それは一面的な性格でしかない。ホビットたちの関心ごとはビールやパイプ草と実に様々だ。だが何より愛するのは、平和な静けさとよく耕された大地。ホビットは育ち行く生命を愛おしむ。
他の種族から見れば風変わりな暮らしと思うだろう。だがホビットの人たちはのんびりした生活の中でこう思っている。「そんな単純な暮らしを祝福するのも悪くない」と。
ホビット庄の暮らしはこうして脈々と続いてきた。小さな事件は起きても暮らしはずっと変わらない。ごく僅かな変化があるだけだ。この土地が世代を越えてすべてを受け継いでいく。――そう、これからも。

しかし不穏な影は確実にホビット庄を捉え、忍び寄ってきていた。その発端はすでに神話の時代より流れ出て、ビルボ・バギンズのポケットの中に引き継がれていた。
その日はビルボの111歳の誕生日だった。平均寿命100歳といわれるホビットたちの中でも111歳のビルボは記録的な高齢だった。ホビット庄には多くの人達が集り、祝賀ムードに湧き上がっていた。
祭りもたけなわになり、ビルボが皆の前に立ってスピーチを始めた。その最後に、ビルボは唐突に姿を消してしまった。あの指輪をはめたのだ。
魔法使いガンダルフはすぐにビルボが指輪を使ったと察して袋小路屋敷へと向った。ビルボが持っていたのは間違いなく魔法の指輪だった。ガンダルフは指輪は危険な魔力を持っている警告し、ビルボに手放すように忠告する。
ビルボはエルフ達が住まう裂け谷へと旅立ち、指輪は養子のフロドに引き渡された。ガンダルフはフロドに、指輪の件は絶対に口にするな、と警告を与えて去っていく。

数年後、ガンダルフはフロドの前に戻ってきた。指輪は神話に語られたサウロンが鍛えたあの指輪であった。しかも魔の軍勢はすでに指輪の所在を察知し、フロドから奪い去ろうと黒の乗り手ナグズルたちを放っていた。
もはや一刻の猶予はない。ガンダルフはフロドに指輪を預け、旅立たせる。
一方ガンダルフは先輩である白のサルマンに助言を求めにアイゼンガルドのオルサンクへと向った。だがサルマンはすでにサウロンの軍門に下っていた。ガンダルフはサウロンの罠に掛かり、オルサンクの屋上に幽閉される。
フロドの旅はいとこのメリーとピピンを加えて順調に進んでいた。ガンダルフと会う予定だったブリー村の踊る小馬亭へと向うが、そこにはガンダルフはいなかった。ブリー村の宿をナグズルたちが襲い掛かる。フロドたちは窮地をアラゴルンに救われ、ブリー村を脱してさらに旅を続いた。
だがナグズルたちの追跡は続いていた。ついにフロドたちは追い詰められ、ナグズルの剣で傷を負ってしまう。
ナグズルの剣には呪いの力が込められていた。フロドは呪いに蝕まれ、衰弱してしまう。そんな最中、エルフの姫アルウェンがフロドを迎え、俊足の馬でナグズルたちを振り切り裂け谷へと到着する。
指輪物語1FC (1)
映画『ロード・オブ・ザ・リング』の原作となる『指輪物語』はJ・R・R・トールキンの手によって描かれた壮大かつ長大な叙事詩だ。物語は1937年頃から執筆がはじまり、第1巻が出版されたのは1954年。翌年すべてが出版され、執筆から完成まで実に18年の歳月を要している。
『指輪物語』の物語はあまりも長大で規模が大きく、しかも学術的な裏付けを持った始めてのファンタジー作品であった。それまでの子供向けに語られる童話と違い、『指輪物語』は途方もなく詳細で、歴史に接しているかのような現実感があった。『指輪物語』は単に一篇の物語ではなく、神話の世界から始まり宗教の形成、それからエルフ語やドワーフ語といった部分に言語学的な精密さを持っていた。長大に思える名作『指輪物語』は、トールキンが創作した巨大な神話の断片に過ぎないのだ。
ファンタジーの歴史は『指輪物語』から始まり、『指輪物語』によってその概念が決定的になったのだと言ってもいい。今においても、ファンタジーは悪の大魔王との戦いという『指輪物語』が定義付けした物語の形式から逃れることも飛躍することもできないでいる。
指輪物語1FC (2)
『指輪物語』はファンタジーの原点であるが、その映像化には途方もない困難があった。実写での映像化は不可能。『指輪物語』に描かれた空想の建築物や、裂け谷といった特徴的な風景、それから多様な人種をどう描くべきか。その方法が長年、発見できないでいたからだ。
アニメなら可能かもしれない。アニメ監督ラルフ・バクシが『指輪物語』のアニメ映像化を試みたが、完成した映像は誰に目から見ても明らかに失敗作だった。133分という短い尺度に第1部を描き、さらには第2部である砦での戦いを無理矢理突っ込んだ構成である。映像の構成は通常のアニメとロトスコープの技法が中途半端に混在してちぐはぐとしていて、物語は一貫性が欠落してどの過程を語っているのか不明だった。まるで酔っ払いの戯言でも聞いているような気分にさせられる作品だった。
ラルフ・バクシの失敗が切っ掛けというわけではないが、『指輪物語』の映像化は半ば神話のように考えられるようになってしまった。
指輪物語1FC (3)
しかし21世紀に入ってこの不可能に挑戦しようという冒険家が出現した。ピーター・ジャクソンその人である。
ピーター・ジャクソンは個人制作で趣味的なスプラッターホラー映画を作り続けていた作家だったが『バッド・テイスト』と『ブレインデッド』がそこそこの評価を受け、『乙女の祈り』でドラマ作を撮れることを証明、その次作でハリウッドに渡り『さまよう魂たち』という小粋なコメディ映画を製作した。
ピーター・ジャクソンのフィルモグラフィーといえば、当時それで全部だった。実力不明で、ハリウッドの映画会社からしてみれば「どこの馬の骨」かわからない謎の男である。
そんな男の妄言を信じてニュー・ライン・シネマは当時としては史上最大規模の340億円を投資。『指輪物語』の伝説に挑戦したのである。
結果として映画『ロード・オブ・ザ・リング』は作品として興行的にも大成功。不可能と思われた原作のシーンの一つ一つを完全再現し、多くの観客を熱狂させ、多くの映像作家に悔しい思いをさせた。ピーター・ジャクソン監督と出演俳優たちは共に多くの名誉を与えられ、映画『ロード・オブ・ザ・リング』は作品自体が『指輪物語』の伝説のひとつとして語られるようになったのである。
指輪物語1FC (4)
その物語である第1部『旅の物語』は穏やかなホビット庄から始まる。ホビット庄には人間の姿はなく、みんな小人ばかりで人間社会にあるような暗さや緊張感はどこにもない。
ホビットたちの暮らしは穏やかでつつましく、のんびりした空気に満ちている。後半のおぞましい展開と較べると別作品のようである。
そこは誰もが思い描く古里であるのだ。古里というのは現実の世界にはなく、詩人たちが歌の中で描く場所だ。あまりにも静かで心温まる場所であり、どこかに哀しみを備えた場所だ。
古里での時間はある時代のある瞬間を留めたまま停止している。変化の時は決して訪れない。なぜなら古里という場所がもはや幻想なのであり、だからこそ小人や妖精たちが住むのに相応しい。
古里という場所は人間が立ち入れない場所であるのだ。思い出の中に描く場所であって、もはや失われた場所であり時間であるのだ。だから古里という場所はいつまでも穏やかさに満ちて静かに佇んでいる。
指輪物語1FC (6)
第1部は妖精世界の物語である。後半に過酷な場面が登場するが、第1部は妖精世界の物語であって、人間的な歴史や武力は介入してこない。
風景は浮世離れした美しさを持ち、そこに流れる空気や時間はあまりにものどかだ。そんな平和に介入してくる黒の乗り手はあまりにも様式的で絵画の世界のようである。登場する舞台は裂け谷にモリアの洞窟といったあまりにも遠くに思える場所である。
襲い掛かる魔物たちも、オークをはじめとして巨人のトロル、幽鬼と呼ばれるナグズルたちだ。敵対する勢力にも人間の影はどこにもない。
もちろん映画が製作したセットや小物の数々は見事な完成度だ。目に見えるもの、見えないもの全てに神経が行き届き、一分の隙を感じさせない。
だが第1部に描く風景やキャラクター達に人間社会を連想させる何かは一切見付からない。あまりにも超現実的で、“リアルである”が“我々の日常及び歴史”に接点を感じさせない。
指輪物語1FC (5)
『ロード・オブ・ザ・リング』の鑑賞は通常の映画と違う印象をもたらす。映画という1つの自己完結した芸術とは、どこか違う空気をまとっている。
強いて言うなら、シリーズものに接している感覚だろうか。少しずつ物語が進み、ひとつひとつは短いが、全体を通してみると驚くべき長大で、見る者はキャラクターの人生の一片に接しているような気にさせる。
『ロード・オブ・ザ・リング』の物語はシリーズものと同じように短いプロットが少しずつ積み重ねられ、すべては必然を持って確実に大きなドラマに繋がろうとしている。それでいて映像作家としてのエゴは少なく、映画はいかにも高級な芸術という場所に反り返ったりせず、物語を語ることに集中している。我々はピーター・ジャクソンという優れた語り手にハラハラしながらじっと(ビルボの御伽噺を聞く子供のように)耳を傾けているのだ。
だが『ロード・オブ・ザ・リング』は明らかにシリーズものとも違う。一方で間違いなく『ロード・オブ・ザ・リング』は映画であるのだ。『ロード・オブ・ザ・リング』はそのどちらでもなく、一方でその両方でもあるという不思議な立ち位置にある作品であるのだ。『ロード・オブ・ザ・リング』は『ロード・オブ・ザ・リング』でしかありえない、唯一絶対の存在であるのだろう。
その第1部『旅の仲間』はやはり長大かつ壮大な物語の前編でしかない。第1部の段階で見る側を確実に圧倒するスケールだが、物語にはまだまだ続きがあるのだ。そしてそこには驚嘆すべき瞬間があり、涙を誘うドラマがある。壮大な第1部も、ほんの断片に過ぎない。

作品データ
監督:ピーター・ジャクソン 原作:J・R・R・トールキン
脚本:フラン・ウォルシュ フィリパ・ボウエン
コンセプチュアルデザイナー:アラン・リー ジョン・ハウ
音楽:ハワード・ショア 主題歌:エンヤ
撮影:アンドリュー・レスニー 編集:ジョン・ギリバート
衣裳:ナイラ・ディクソン リチャード・テイラー
出演:イライジャ・ウッド イアン・マッケラン
    ヴィゴ・モーテンセン ショーン・アスティン
    ビリー・ボイド ドミニク・モナハン
    オーランド・ブルーム ジョン・リス=デイヴィス
    ショーン・ビーン アンディ・サーキス
    ケイト・ブランシェット リヴ・タイラー
    マートン・ソーカス イアン・ホルム
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[ 2010/01/21 12:17 ] 映画評 | TB(0) | CM(0)